自律神経の具合がちょっとアレになり,病気休暇を取って今後の人生について考えているなんだかんだのうちに33歳になってしまいまして,30歳の時に克服できたと思っていた「血液型性格判断トークに紛れ込む」という課題も,先週のNew York Timesに載ったBlood, Sweat and Type O: Japan's Weird Scienceという記事を見てしまうと,こりゃイカンというか,ここ数年でさらに状況は酷くなっている,克服してるバヤイじゃないと感じたのです。
人間の性格,それに限らず自然と言うものはもっと遥かに複雑で多様性に満ち溢れたものなんですよ。それをたったの4つの型にはめて「AB型は○○な性格だ」のように断定すること,しかもその相関とやらには何の根拠もない,血液型性格判断とはまったくもって思考停止にほかならないんです。
さらに根深い問題を2つ感じます。その1つは,その血液型であること以上の意味を持たない遺伝子の表現型を元に,その人の性格を決めつけてしまうこと。これは優生思想的な差別です。少なくともワタクシは血液型で性格を決めつけられたときに,その相手のことを優生思想の持主であると感じます。例えば,上司が血液型性格判断を信じていることがわかったとき,部下である自分は正当に評価されているかどうか自信を持てるでしょうか。
次には,このようなニセ科学が蔓延すると,子供たちの科学教育に対して悪い影響があるだろうことです。「O型の子は○○だ」「マイナスイオンを浴びに行こう」「今日の晩ご飯はサラサラ血液になる…」なんてことを言う大人達がまともに子供を教育できるでしょうか。
以上がワタクシの思いですが,アメリカの新聞に「奇妙な科学」「社会の潤滑油,会話のきっかけ」「能見正比古」なんて揶揄されて笑ってられないですよ。特に「B型なのにA型っぽいところあるよね」などと,相関がないことを体感して言葉にしているにも関わらず血液型から離れられない人,早く目を覚まして,自然の複雑さと多様性の素晴らしさに目を向けましょう。
といったことをここ1週間考えていましたが,いい番組があったんですね。
上に書いたことは本当にひょんなことから『永遠の法』を観ることになってしまったときに,宗教について感じたことにもつながるのですが,それはまたの機会に。